ルーテル教会について

教会史の概略
・初代教会
・ルターの宗教改革
・ルーテル教会の発展
・ウィスコンシン・エヴァンジェリカル(福音)・ルーテル・シノッド
・ルーテル福音キリスト教会(LECC)日本

初代教会

聖書は”聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うこと(ユダの手紙 3)を勧めます。 ステパノにみならって、多くのキリスト信者たちは、ローマ帝国の支配の下で、迫害にあって、 信仰の為に死にました。しかし、迫害はキリスト教教会を踏みつけてなくすことはできません。 むしろ、使徒たちの時代とちょうど同じように、”散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝え” (使徒行伝 8章4節)ました。キリスト教はローマ人支配の世に広まり、キリストの死後、 およそ三世紀までには、帝国の公認の宗教となりました。

教会は、迫害ばかりでなく、誤った教えとも戦わなければなりませんでした。 使徒たちの時代の直後の数世紀にアライアス他の聖職者たちは、イエスは父の神格を持ったまことの神ではなく 、むしろ神が最初に創られた人、父に似た者であると主張しました。キリスト教の司教たちと、その教会員たちは、 この偽りの教えをしりぞけ、まことの信仰を聖書に基づいた告白書に要約しました。わたしたちが今日なお告白している、 使徒信条、ニケア信条、アタナシウス信条は、教会史ではこの時代から、はじまります。

しかし、次第に多くの偽った考え方が、キリスト教信者の間に根をおろしました。結婚しない人生、財産を持たない人生、 すなわち世間からの逃避は、世俗の中でキリスト信者の生活をするよりも清いと考えられるようになりました。 ローマの司教は”父”すなわちキリストの代理人であり、地上の教会の目に見えるかしらであると自称しました。 主の晩餐は、日々血を流すことなく繰り返される十字架上のキリストの犠牲と考える無血祭に変えられ死んだ者と生きている者のために、 神父によってとり行われました。キリスト教信者は自分たちの救いについては、不安な状態におかれていましたし、 神の恩寵をいただく手段として、キリストのいさおしばかりでなく、自分自身の善行が必要であると教えられました。 救い主は、厳格な裁判官で、マリヤと他の聖者たちを通して最も近づくことができるお方であると、示されました。 教会の教えは、罪に罰を課しました(告解の秘蹟)。それはもし罪人が生きている間に、その人の罰をうけなかったら 、死後に煉獄で苦しむことになるというものです。免罪符はそのような罰の赦免または消滅のために売られました。 洗礼はまだとり行われ、主の晩餐は、まだ守られていました(しかしパンだけが人々に配られました)。 そして聖書は、まだ保存され写し直されました。しかし、福音の教義は、悲しいことに偽りの説によって不明瞭になりました。

ルターの宗教改革

マルチン・ルターは、1483年に生まれ、幼少の頃からローマ・カトリック教会の教義を教わりました。 彼は、罪人である自分が、どのようにして、神の怒りを免れ、神の赦しを確認することができるのだろうか、 という問題で深く悩みました。その答えを見出したいと願って、彼は修道士になりました。修道院の院長たちは、 彼の能力を認めて、彼が学び、そしてまた教えるように導きました。このようにして、ルターは聖書に親しむようになり、 その聖書を後にヘブル語とギリシヤ語から母国語であるドイツ語に翻訳しました。聖書の中に、彼は自分の持っていた疑問の解答を見つけました。 すなわち、わたしたち自身の義ではなく、キリストの義によって、神の恩寵を受けると。また、私たち自身のどんな行いでもなく、 キリストを信じる信仰によって、私たちは義認されると。これはルターの宗教改革の指導的原理になりました。それは、 どんな教会の伝統や権威でもなく、聖書だけが教義を決定するのものであり、私たちが神のためになすどんな業でもなく、 信仰だけで、神のみ恵みによって、私たちは救われるというのです。

ルターは、教会が改革されるために、法王が聖書のみ言に耳を傾けることを希望しました。ドイツのヴィッテンベルクで、 1517年10月31日に、彼は免罪符に関する95ヶ条の提題を掲示しました。その提題は、ルターのほかの文書と共に、 ローマ・カトリック教会に処分を言い渡されました。マルチン・ルター自身は、異端者として破門されましたが、説教集、 様々な本、式文や、賛美歌を書いて、福音を宣教し続けました。聖書の真理のために戦った宗教改革者ルターと彼の後継者たちは、 聖書の教えの真理を述べ、事実に反する誤りをしりぞける信仰告白書に、彼らの教義を要約しました。

三つの古い教会告白書、アウグスブルク信仰告白書弁証論、スマルカルド信条、ルター大教理問答書、 ルター小教理問答書、和教信条、これらを用いましたが、これら全ては、1580年の一致信条書に含まれています。 これらの信仰告白書は、ルーテル教会を、ローマ・カトリック教会ばかりでなく、また改革派教会とも区別しています。 いろいろな改革派団体は、ローマ・カトリック教会から脱会しましたが、聖書の真理の一部(例えば、聖餐式における キリストのからだと血の真の存在)をしりぞけます。今日のプロテスタント教会の歴史は、宗教改革または宗教改革後の時代からはじまっています。

ルーテル教会の発展

ルターの宗教改革は、ドイツからヨーロッパの他の国々へ広がり、特に、スカンジナビアの北方に広がりました。 北ヨーロッパのルーテル派の人々は、初期のアメリカ移民の中に入りました。まもなく、彼らはインディアンの間に伝道を行い、 ルター小教理問答書が、アメリカインディアンのことばに、はじめて翻訳されました。(1646年)合衆国へやって来たルーテル派の移民たちは、 地方教会を設立し、その教会はいくつかの宗教会議で結びつきました。

ウィスコンシン・エヴァンジェリカル(福音)・ルーテル・シノッド

ウィスコンシン・シノッドは、1850年に正式に結成されました。18の教会に仕える5人の牧師が、最初の会議に出席しました。 1872年にウィスコンシン・シノッドとミズーリ・シノッドは、ルーテル・シナディカル・カンファレンス・オブ・ノースアメリカの設立メンバーになりました。 そのカンファレンスは、教義と実際(また、実践)の完全一致とういう原則にたって設立されました。 20年後、ミネソタ・シノッドとミシガン・シノッドは、今日ウィスコンシン・福音ルーテル・シノッド (WELS)とよばれているウィスコンシン・シノッドと合併しました。

教義と実際が異なっているために、ウィスコンシン・シノッドは、ザ・ルーテル・チャーチ、すなわちミズーリ・シノッドと1961年に親交を中断しました 。そして1963年に教会会議から脱会しました。ザ・エヴァンジェリカル・ルーテル・シノッド(ELS)も同じ行動をとりました。 アメリカにおける全てのルーテル・シノッドは、ルーテル信仰告白書を受け入れていますが、それらの間には、教義と実際、特に聖書に関する教義と、 教会に関する教義に、重大な相異があります。

ルーテル福音キリスト教会(LECC)日本

1957年以来、ウィスコンシン・福音ルーテル・シノッドは福音を宣教するため、また信者を集めて地方教会とするために、 日本へ宣教師を送ってきました。宣教師の家庭は、茨城県の水戸市、土浦市、東京都の東久留米市に作られました。 現在では神学校が土浦市に開かれ、伝道地域は東京都、千葉県、神奈川県、茨城県、栃木県にあります。